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表面はコピーできても
本質はコピーできない

小説家、映画監督として活躍する安藤桃子さんと、美容師という仕事を通して他者と人生の醍醐味を共有する赤松美和さん。フィールドは異なれど、「直感」を信じて、クリエイトし続けている彼女たちの対談から見えてくるものとは?

安藤 デジタル化とかテクノロジーの進化を否定する人もいますが、本来は人の向上心が生む、純粋な進化でなければいけないですよね。高層ビルを見て、あ〜イヤだっていうより、こんなでかいもの、どうやって建てたんだろう!? 一生懸命建てたんだろうって思うほうがいい。その構想から実現までの努力に着目したほうが面白い。新薬とかもそうですよね。開発者は、それが正しいと思ってやっているわけだから。ただ、それによってゆがみが生じているのも事実だと思っています。要は、使い方なんじゃないかなと。原点と進化のちょうどいい中間地点、クロスポイントを見つけたいですよね。

赤松 ゆがみは確かにありますよね。

安藤 今の飲食店や美容室のクーポン化もそうだし、外出せずともネットでなんでも買えちゃう通販システムもそうだし、インターネットの普及でコミュニケーションの有りようが変わってきているけれど、便利さと同時に我々が失っているものがあるのも事実。ただ、文明の利器がなければ私は高知に移住できていないし、今のバランスで生きられていないです。パソコンも、飛行機だって、車だってありがたい。

赤松 テクノロジーの進化の恩恵なくして、現代生活は立ち行かないですよね。

安藤 そうなんですよ。ただ、単純に「人間が使うもの」でなければならないスタンスがズレてきているようには感じています。テクノロジーに使われてしまっているのかな。ちょうどいいクロスポイントを見つけなければならないのは、家づくりでも映画でも何でも同じだと思います。そうそう、「0.5ミリ」の撮影では16ミリフィルムを使用したんです。フィルムで撮れるのも最後かもと思って。

赤松 そうだったのですね。

安藤 今後もずっとフィルムで撮影したいのですが、現実として、撮ったものをまたデジタル化しないと上映できない劇場がほとんど。デジタル化の波が押し寄せて、そのおかげで、というか、そのせいで、小さな劇場や配給会社もつぶれていっているんです。映画界もたくさんの問題を抱えているのですが、それを嘆くよりも、いかに新しいやり方を見出していくか、が大切ですよね。逆に混沌としているからこそ、新たな場所が見えてくる時代と言えるかもしれません。デジタル化の恩恵を受けていることもあるし、結局使い方しだいなんじゃないかな。だけど、美容師さんのカットの技術だけは、デジタル化できないですからね。

赤松 人対人のコミュニケーションですからね。言葉を話すのと一緒で、ハサミは手段。ハサミを持つようになったおかげで出会えた人がいて……私は、そんなアナログなところが気に入っているんです。

 

安藤 「アーティスト」って言葉は、ときとして曖昧だなって思うんです。アーティストは、それ以前に職人であることが大切だと思っています。技術があるからクリエイティブな部分に行けるんじゃないかなって。そのベースは無視できないと思います。職人の部分は飛び級できない。

赤松 職能の部分は、私も譲れないところですね。表現者であると同時に職人であると思っています。

安藤 そういう意識を持っている人は、ヨボヨボになってもたぶん生涯現役ですね(笑)。ずっとハサミを持ち続ける。映画を撮り続ける。でも、今はカメラもなんでもすごい進化で、誰でもある程度のクオリティが出せちゃう。安易なツールになってしまっているときがある。

赤松 誰でも手軽に使えるものになっていますものね。

安藤 そこが厄介。映画には、映画の方程式があって、長い歴史がある。それを知った上で、ハンディカメラで撮影するのはアリだけれど、そういうことをぶっ飛ばして感性だけで撮ったもののは映画とは呼べないのかもしれません。赤ちゃんとピカソの違いのような。

赤松 赤ちゃんとピカソですか?

安藤 ユニークな絵があったとして、ひとつはピカソでひとつは赤ちゃんが描いたものだとした場合、何が大きく違うかというと、ピカソは意識してそれを描いていますよね。プラスまで行った人が引き算してつくりあげた、意識のもとにできあがったものがアートであり、クリエイティブなものだと思うんです。だから、赤ちゃんもピカソも一緒だという風潮には中指突き立てちゃう(笑)。

赤松 誰もがインスタントになんでもできた気分になれてしまう。

安藤 髪型も「なんとか風」で切られちゃっても困りますよね。ヘアサロンではキレイなのに、翌日になったら自分でスタイリングできないっていうことがよくあるじゃないですか。

赤松 その違いは、オリジナルまで消化しているのかどうかでしょうね。誰々っぽいとか、何々風などが氾濫しているのは確かです。ただ、オリジナルの人って試行錯誤して、そこに哲学があって、その形に行き着いているけれど、そうでない人は、ただ単に形だけを真似している。思考の部分をコピーすることはできないから、ヴィジュアルだけを真似したものになってしまう。

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