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哲学
30

爆発を待つわたしたちの日常について

2019.02.28

スマホを取り出そうとバッグをのぞき込んだら、持ち物が茶碗蒸しまみれになっていた。

財布も。
MacBook Airも。
使い古された雑誌も、このあと提出する大事な書類も、とにかくすべてが。
卵だ。卵だらけだ。

理由はすぐに思い当たった。
研究室で隠れて食べようとコンビニで買っておいた茶碗蒸しがバッグの中で破裂していたのだ。
思わず、なんで、と声が漏れてしまう。
目の前をぴゅうと電車が走り抜けて、駅員さんが白線の内側にお下がりください、と言う。

あてどない思いで雑誌を取り出すと、雑誌には銀杏がべっとりと張り付いている。
指でぬるりと引きはがすと「哲学」という文字があらわになった。 哲学研究。 これがわたしの仕事なのだ。

哲学って何するんですか。
専門を聞かれ答えると、必ずされる質問だ。
質問してくれた人は「哲学です」と言うと、たいてい「て、てつがく」と口の中でつぶやき、失礼のないようにと怪訝な顔を少し整えて「哲学って何するんですか」と聞いてくれる。
すると、哲学研究者たちは、はい!アプリオリな能力としての純粋構想力が産出する図式をめぐる議論です!などと、嬉々として自分の専門について語りだしてしまう。
テツガクってそもそも何ですか、という質問であったにもかかわらず。

本屋に行き哲学のコーナーを見ると、事態はより悪化する。
『純粋理性批判』のように、いかにもテツガクというものもあれば、『国家』のように壮大すぎて結局内容が分からないものもある。かと思えば、『存在と時間』『差異と反復』『物質と記憶』など、青春アミーゴの修二と彰さながらコンビ名っぽいものもある。地元で負け知らずだったかもしれないが、いずれにせよ、よく分からない。

だからこそ、多くの人に哲学はあまり受け入れられていない。
哲学者は変人を気取っていると思われる。難しい用語を並べ立て悦に入っていると解釈される。もしくは、役に立たないことに時間を費やしていると冷笑される。

たしかに、哲学の用語は難しい。純粋悟性概念とか。現象学的還元とか。
でもさあ、それってほかの分野も同じじゃん、とも思う。ゴリゴリの金融系の友人から「会わせたい人がいるんだけど、空きスロットある?」とメールが来て、パチンコに手を染めたか?と思ったくらいだ。

専門用語とは、物事を円滑に進めるための、ただの道具だ。
哲学者が何百ページもかけて説明したことが、たった一言「超越論的統覚」で済むなら楽ちんだ。
だから、まず用語の難しさで哲学に壁を感じているひとがいたら、専門用語は、ギャルが「精神が非常に高揚している状態」を「テンアゲ」で済ませるみたいなものだと理解してほしい。
その程度のことだ。

 

哲学は意外とシンプルである。

哲学とは、「なんで?と問うこと」だからだ。 
だから、学問というよりは、行為と表現した方がいいかもしれない。

ある哲学者は、哲学することの根源は「驚異と懐疑と喪失の意識」であると言った。

人は、びっくりしたりつらいことがあったりすると、「なんで?」と自然に問うてしまう。 要するに、「は?(驚異)マジで?(懐疑)つら(喪失)」から哲学は始まるのだ。
そうなると、わたしたちは、わりと簡単に哲学できるかもしれない。

だったら、問いは別に高尚である必要はない。
「なんで生きているのか」「なんで世界は存在するのか」なんて問いだけじゃなくて、「なんで社外でも同僚とLINEでつながらなきゃいけないのか」「なんでパートナーがいて幸せなのに浮気したくなるのか」とかでもいい。
茶碗蒸しの爆発ですら、哲学が開始される合図なのだ。

それに、哲学は意外と役にも立つ。
「なんで」と問うことは、その問題から、わたしを引き剥がす試みだ。
人は苦しんでいるとき、何に悩んでいるのか分かっていないことが多い。
漠然とした、説明できないもやもやに、身体はむしばまれていく。

苦しみはぴったりとあなたに寄り添って、その姿を見ることはできない。

だが、「なんで」と問うことによって、苦しみを、とりあえず目の前に座らせることはできる。
そうすれば、苦しみがどんな顔かたちをしているのかが分かる。確認できる。
まじまじと観察して、お茶でも出してあげよう。
早く帰ってと説得してもいいし、そのまま一緒に暮らしてみても案外面白いかもしれない。
少なくとも、得体の知れない不安感は、少し消えるはずだ。

なんで、と言うことによって、私たちはいつでも哲学を始めることができる。

なんて言いつつ、あの日の飛び散った卵まみれのバッグの中身を思い出す。
思わず口からこぼれた「なんで?」というつぶやきも。雑誌に張り付いた銀杏の色も。

もしかしたら、わたしたちは、自分の意志で哲学を始めるというよりも、始め「させられる」ことの方が多いのかもしれない。

日常は、哲学の起爆剤で満ちている。

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