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コラム > 宝塚 de 文学入門!! > 石田昌也 ショーストッパー
宝塚
37

石田昌也 ショーストッパー

2021.09.12

突然だが、皆さんは母国語以外の映画を見るとき、字幕で観る派だろうか?それとも吹き替えで観る派だろうか。
自称映画ツウが
「やっぱり映画ファンとしては字幕派だよ、吹き替えだと俳優の演技が分からないから」
と言うシーンを3億回くらい見聞きしたことがある。
私はその度に「ケッ(吐き気)」を飲み込んで微笑をたたえてきたのだが、強いて答えるとしたら【吹き替え派】だ。
その心は、映画にとって永遠のテーマは「目線の誘導」だと思うからだ。観客がその画角の隅々の中からどこに注目するか、それを作り手が誘導する“技術“。たとえドキュメンタリー映画だったとしても、カメラを向けている時点で「撮り手の主観」が入ってしまうので、これはドキュメンタリーではない……。そんな丁寧なディスカッションを重ねてここまできているのが、映画という技術だからである。
字幕の話に戻る。
と、すると、そんな「撮り手が繊細に計算し尽くした完成された長方形」の中に、無粋な他国語――字幕がのるということは基本的にはその文化とは相いれない造形の文字が乗ってしまう“ということだ――が、ドシンと画角の下部や右端を陣取ってしまっていいはずがないと私は思うのだ。
そこで、私はどうしても「俳優の演技」とやらが見たい場合は、まず先に吹き替えで5回観てセリフをひとしきり覚える。そうして初めてオリジナル版、つまり吹き替えなし・字幕なしの原語版で観る。完全にリスニングできるわけではないけれども名詞と形容詞と動詞さえ聞き取れれば演技の雰囲気はつかめるので、どうしても俳優の演技が聞きたいのなら、この方法はオススメだ。

舞台ではどうだろうか?
宝塚ファンに限らず、近年舞台ファンの多くは観劇時にオペラグラスが必須アイテムとなっている。宝塚ならば「贔屓」(それ以外の界隈でいうところの「推し」)の一挙手一投足を見逃すまいと、出てきた瞬間にオペラグラスをザッと上げ、いなくなったら下げるというのは、近年の舞台ファンには見慣れた光景だ。
この欲求自体は仕方がない。舞台演劇ビジネスは出演者を推してくれるファンの課金によって成り立っているからである。

そこで難しくなってくるのが冒頭で述べた「目線の誘導」である。
1980年以降くらいから、宝塚に限らず演劇の話法もかつてほど文語的ではなくなってきた。
自然な会話調のセリフのやり取りで心情が描かれるとあれば、言葉だけで心情以外の状況などを説明することが難しくなってきた。そうすると、演出家は演者の演技そのものや、それ以外のセットや照明などの機構をふんだんに使ってそれを説明したいと思うはずだ。
だが、それを「オペラグラスの中に夢中の人たち」が全く見ていないとしたらどうだろう。
今回語り尽くしたい石田昌也さんは、そんな観客が90%超の宝塚歌劇団において、そこに真っ向から立ち向かっている演出家だと思っている。

石田さんの紹介に移る前に、演者が「ずっと見つめられている」ことに違和感を感じた例を読んだことがある。
もう10年近く前、他劇団で過去に上演した作品を映画館で復刻上映するという企画が持ち上がったことがあった。このコロナ禍で隆盛したライブビューイングや配信的なものの先駆けである。その取り組みに対し、ある俳優は冗談まじりに
「舞台上とはいえ休憩してるところを勝手に撮られている可能性があるのに困ったもんだ」
とこぼした。ユーモアあふれるその人のことだから他意はないのだろうが、それを聞いて私は
「確かに、本当の名優なら舞台の本筋以外で観客の『目線を奪う』ような“余計な演技“をするだろうか」と疑問に思ったのだった。特にオペラグラス文化が色濃い宝塚においては、ワキの誰がこんなことをしていたとか、こんな小芝居が素晴らしいというような「レポ」が初日以降飛び交い続ける。そのこと自体、その役者の小さな努力自体はその後のその人の血肉になるとは思う。
だが、そちらが主題では断じてないはずで。主題がわからないまま枝葉を愛でているようなことになりはしないか?

連載中何度も繰り返してきたが、宝塚歌劇団というのは「スターシステム」で食っている劇団である。スターのファンが全てであり、スターのファンが分かり満足するように演劇を進めていかねばならない世知辛い商売だ。
そうすると、そういった「オペラグラスの中に夢中になっている人」にどう物語を伝えるか。ここは大きく難しい永遠の命題である。

さあ、今回のテーマの石田昌也さんは、1979年入団。1986年に『恋のチェッカー・フラッグ』(1986年雪組宝塚バウホール公演/主演一路真輝)で演出家デビュー。その後『ブレイク・ザ・ボーダー!』(1991年月組宝塚大劇場公演/主演涼風真世)で初の大劇場公演を担当する。宝塚にはミュージカルやオペレッタなどストーリー性のある芝居が中心の「前物」と、音楽とダンスが中心で展開するレビューやショーの「後物」という2ジャンルが存在する。この「前物」「後物」は約1時間ずつのセットであったり、芝居1本で3時間興行するケースがあったりする。
そして、この「前物」と「後物」は、それぞれ専任制であることが多いのだが、石田さんの場合は骨太な芝居(前物)も音楽性に優れたショー(後物)もどちらも担当してきたことが大きな特徴である。単にショーを担当できる作家は多いが、元花組トップスター真矢みき(『MIKIin BUDOKAN』1998年花組)や元星組トップスター柚希礼音(『REONin BUDOKAN〜LEGEND〜』2014年星組)など、タカラジェンヌの武道館コンサートを手がけてきた、宝塚歌劇団唯一の座付作家である。
私個人としても彼のその高い音楽性にはすっかり魅了されていて、疾走感ある選曲とアレンジ、それに加えた音楽の向こうの物語性の高さに毎度唸らされるばかりで大変好きな作家なのだ。

 

 ……とここまで絶賛しているけれども、実は、言葉を選ばずに率直に言うと、石田さんの「ファンの下馬評」はさほどよくない。

ちょっとねー、これはファン歴25年中20年くらいずっとモヤモヤしていたことなので、この場を借りて全方面論破させてくださいましね。今回は長いよ。

はっきり言って「前物作家」としての石田昌也さんの作風にファンは多くない。
というか、むしろアンチが多いようにすら感じてしまう。
だが、これは私が上田久美子さん回で述べたような背景もはらむ。

「失敗もあるがユニークな作家」より、「私、失敗しないんで」を好むという現代性の象徴のようにも感じている。
(中略)
京都大学文学部卒という“権威“までお持ちで、もう無双だと思う。それが理由で彼女を推してるわけじゃない!というファンは多いだろう。だが、「それと逆の理由で他の座付作家を気軽に酷評してみせる」観客が一定数いるという事実も、悲しいかな記しておきたい。」(同連載上田久美子「噺家」より引用)

私に言わせれば、石田さんの芸風を目に見えるところで叩く人は「過去に失敗した経験があるから叩いても大丈夫」と思っている人も多いように感じる。なのでまずは、それが「大丈夫ではない」ということを丁寧に回収していく必要がある。

石田さんが叩かれやすい構造は2つある。
1つは、説明的な物語構造だ。この後に例示するプロットの構造例を外してみても、セリフの端々に「そない説明せんでもわかるがな」と思って無理はない描写は確かに多いとは思う。たとえば、『カンパニー』(2018年月組宝塚大劇場公演/主演珠城りょう・愛希れいか)の際は、バレエの徒弟制を相撲部屋のそれに喩えるくだりなどがあり物議を醸した。
プロットとしては、「物語の主軸となる時代」と「それを振り返る現代(に近い時間軸)」の登場人物の二層構造で展開する手法を好む。例としては『モンテ・クリスト伯』(2013年宙組宝塚大劇場公演/主演凰稀かなめ・実咲凜音)、『壬生義士伝』(2019年雪組宝塚大劇場公演/主演望海風斗・真彩希帆)がそうだった。
これは現代軸の演者たちがストーリーテラー群となって、時折登場しては過去を振り返る体で足りない情報を捕捉し、また過去の主題となる時間軸へ戻っていくという進行スタイルだ。
こういった手法を「くどい」だの「話の中で説明できないのは力量不足」だのといった“ありがたい感想“が飛び交う。
ただ、私は先の『カンパニー』の一節で
「この人は力量が足りないのではなくて、単純に私たち観客を一切信用していないんだな」
と決定的に感じたことがある。
つまり、冒頭の「宝塚の観客はオペラグラスの中しか見ていない」ことを“知っている“と思った。

2つ目の問題は「セリフにおける失言」である。
私はそう感じたことがないので、批判する皆さんの意見をまとめると概ね次のようなもので

・ “タカラジェンヌに言わせるに値しない“現代性と下品をはき違えた表現=【すみれコード】への抵触
・ むしろ現代性がなく、笑いの質が“現代的価値観“から時代遅れである

大雑把にこの2点である。直近で槍玉に上がったのは次の例だ。
これも先述の『カンパニー』。伊吹有喜氏の同名小説が原作で、ひょんなことから製薬会社のリストラ候補からバレエ団に出向することになった主人公が、出向先のバレエ団で巻き起こる“バレエらしい一風変わった“難題に立ち向かっていきながら、バレエ団の面々と心を通わせていくロマンス劇だった。
その中で、製薬会社からリストラされる元バレーボール選手で、その製薬会社がスポンサー契約するアイドルアスリートのトレーナーである瀬川由衣(海乃美月さん)のセリフが物議を醸したのだ。
彼女がコーチを務めるアイドルアスリート・マイマイは、オリンピックを目前に幼なじみのお笑い芸人と恋仲になり子どもを身籠ってしまう。同じ女性としては受け入れ祝福しなければと思うものの、自分は彼女とのトレーナー契約で会社と繋がっている……、そのときそのお笑い芸人が「責任を取ります」と言う。

由衣責任って?
お笑い芸人結婚します

これを言われた瞬間、由衣はブチギレる。

由衣当たり前だ!お前が孕ませた張本人だろうが!!!!!

…………。
これ、多分宝塚ファン以外は「何が物議を醸したの⁉︎」とマガジンマーク飛びまくりだと思う。
大切なビジネスパートナーが好きな人との間に大切な命を授かったことは素直に喜びたい。でも、時期が時期だ。こんな大切な時だっていうことを、こいつ(お笑い芸人)はちゃんとわかってたのか?本当にマイマイのことを大事にしてたの?ただやりたいだけでできたんじゃないの?その辺説明しろよ!!!そして私はクビになるかもしれないんだぞー!!!
という中間管理職女子なら誰もが感じたことのありそうな怒りの一言で、共感されこそすれ非難される覚えは本来なさそうなものだ。

さて、これは単に「孕ませた」という表面的なキーワードがアウトで炎上したというのが結論である。一言で言うと、「孕ませた」なんてタカラジェンヌに言わせないで!という主張。
多分、これは補足がないと一般社会的にはギョッとするカルチャーなのではないかと思う。すみませんねえ、だからニッチでやばいカルチャーだと初回で言ったでしょ。
初回で前提しているが、宝塚歌劇の創始は「芸事が性産業と訣別すること」にあった。
そこでざっくり“直接的な性的表現はタブー“だとか、出演者の年齢は非公開にするとか、いろんな決まり事が生まれ、それが次第に【すみれコード】と呼ばれるようになった。
そのこと自体はいいのだが、その【すみれコード】自体は大変あやふやなもので、時代によって変わりゆくし(ここでは割愛)、そもそも“直接的な性的表現はタブー“と言っておきながら基本は男役トップスターと娘役トップスターの“異性愛規範“が主題なのだからいびつな話なのである。
筆者個人の立場としては、とりあえず「性産業との訣別としての【すみれコード】」はあったほうがいいと思っている。本来が【少女】のものであるべきだという観点から、異性愛だろうが同性愛だろうが性産業的なエンターテインメントとは徹底して距離を置くべきだと思っているからだ。防波堤は必要だと思っている。
だが、過去に“直接的な性表現“が場面上描写されていなくても、主人公から未成年への同意のない暴行(『仮面のロマネスク(原作「危険な関係」ラクロ)』1997年雪組他複数再演)やら、若者たちによる集団暴行(『ウエストサイド物語』1968年月・雪組他複数再演)やら、主題に関わる直接的な形で描かれているわけで。
多分その度に「こんなシーンを彼女たちに演じさせるなんて!」とファンが言ってきたんだろうな〜とは思う。言ってきたと、私は信じているんですけど。

かといって、手放しに「歴史とはそういうもんなので【すみれコード】は無視でいいんですよ」と思っているわけではもちろんない。これを“誰に言わせるか“ということが石田さんの手腕の見せ所だ。
瀬川由衣役の海乃美月さんは、細面で繊細な美貌の“いかにも少女漫画に出てきそうな作画“のヒロイン系娘役だった。
私はここに、石田さんの策が光ると思っている。
配役が出たとき、由衣の役は元バレーボール選手のアスリートという話だったけれど、長身であるということ以外にはどうも線が細いと思っていた。
そこに、あのセリフである。
私は2回目くらいの観劇時に「少年少女漫画のボーイッシュなヒロイン風の品を称えた由衣に仕上げられる海乃さんだから、あのセリフを強行できたんだな」と読んだ。
Hよりも硬い鉛筆で描いたような繊細な顔立ちの海乃さんは、どんなに激昂しても、どんなにはっきりと「孕ませた張本人だろうが!!!!!」と叫んでも、二次元美少女の世界から出てこない。
むしろ、ジャンプやらサンデーやらでよく見る、ボーイッシュな美少女が本質をついて(大体が男に)ブチギレているシーンにしか見えないのである。とにかく可愛い。イメージとしては、コナンオタクの私としては世良真純ちゃんぽい!と思った。オタクの数だけ喩えがありそうだな。

石田さんは多分、海乃さんの「圧倒的二次元美少女力」に賭けてあのセリフを“削らない“英断をした。
彼女の存在そのものが【何をしてもすみれコードを超えない】と信用している能力を存分に借りて、オペラグラスの中に夢中になっている観客に言葉尻でギョッとさせ、オペラグラスを下ろさせたと読んでいる。まさに計算されたショーストップ。
彼は観客を信用していない分演者を信用していて、その分大胆にベットするのだなと思った。これに、私は痺れている。
彼の“時流に対するアンテナ“は、全く狂っていない。むしろ、安易な「今拍手ちょうだい!」的ショーストップより全然粋だと私は思っている。

 

 石田さんの「ギョッとさせる手腕」が瞬間的でなく、断続的に展開し続けた名作がある。『銀ちゃんの恋』(1996年月組バウホール公演/主演久世星佳・風花舞)だ。

つかこうへい作の戯曲で1980年に劇団つかこうへい事務所で初演された『銀ちゃんのこと』、1982年に松竹配給で製作された『蒲田行進曲』などを原作とした、映画俳優とその女を取り巻くドタバタ人情活劇である。
映画『蒲田行進曲』の配信サイトからあらすじを引用するとこんな感じ。
「人情に篤いが激情家なのが玉にキズの大スター銀ちゃんと、その銀ちゃんに憧れる大部屋俳優のヤス。ある日、ヤスのアパートに銀ちゃんが女優の小夏を連れてやって来た。銀ちゃんの子を身籠った小夏をスキャンダルになるからとヤスに押し付けに来たのだった......。」

美しい風間杜夫さんの気持ちいくらいのクズ男ぶりと平田満さんの男気あふれるマルチな演技、松坂慶子さんの透明感に見惚れる1時間49分。古き良き時代の「スターを見た!」という人情喜劇である。あらすじだけ読むと銀ちゃんはまごうことなきクズだが、ヤスも小夏も全員大概の馬鹿者である。映画に没頭したならず者たちの馬鹿の賛歌――。
これを原作とする『銀ちゃんの恋』を、なんと宝塚歌劇団は2021年8月の今満を辞して再演することにした。
こんな無茶苦茶な話なので、事実観た人の中には「女性はモノではない。こんな作品をなぜ今わざわざ再演したのか」という声が散見された。そしてこれも繰り返すが、先述の「石田さんの作品は気軽に叩く」という風潮の上で増長されていると感じてしまう。
ここも、出会ったその日から“25年来の石田ファン“として、防衛してススメなければならない。
石田さんも原作者のつかさんも知ってんねんよ。女性はモノじゃないなんてこと。

まず私がそういった声、「女性はモノじゃない」と言う反論に対して思うのは、もっとひどい地獄を知っているか?と言うことである。
自分の子を身籠ったから押しつけに来た銀ちゃんはまごうごとなきクズである。
ただ、クズはクズでももっとひどいクズが世の中にはたくさんいる。
たとえば、生田大和さん回で紹介した『春の雪』(原作三島由紀夫)。公家に嫁ぐ予定でありながら清顕の子を身籠ってしまった聡子は、その愛する人・清顕の親と自分の親の手によって手配され、生涯唯一愛した人との子を堕胎させられる。
これも宝塚でしっかりバッチリ上演された。
地獄って、古くて遠いどこかの話ではない。
私たちの日常のどこかにも、合意の上で身籠った夫婦でも、つわりで苦しむ配偶者に「妊娠は病気じゃない」と言ったり、挙げ句の果てには「自分は別に子どもが欲しいわけじゃない」とのたまったりする下衆がいるそうだ。
とすると、遡ってあの時代の映画撮影所、売れるか売れないかの瀬戸際の俳優たちにフォーカスすると……。自分の“女“が身籠ったら「堕ろせ」と言うどころか、堕ろさせる手配をさっさと済ませて自分は知らん顔という男もいて不思議ではない。というか、もしかしたら原作者のつかさんは、そんな「人気スター」の姿を見てきたからあれを描いたのか……?と邪推してしまいもする。
そこを大部屋の子分で、一番信頼がおけるヤスの元に連れてくる銀ちゃんのしょうもなさがまた面白い。「しょうもない」とは“可愛い“と“だからダメなんだ“が交錯する言葉で、事実その後銀ちゃんはスターダムからジリジリと落ちていくのだけど。

銀ちゃんがクズであることは変わりはないのだが、銀ちゃん以上のクズ・下衆・外道はこの世界にあふれるほどたくさんいる。
そういうあふれるような現実のクズは古今東西老若男女ググればたくさん出てくるのに、知らないまま坐して目の前の“創作“(しかも過去の)だけ攻撃するのはちょっと勿体無いので、そういう視野の狭い人は、ぜひ想像だにしない地獄をもっとググってみるべきだと私は思う。

石田さんがこの銀ちゃんという稀代のクズを宝塚ナイズするために改変した細かい点を一応述べておきたい。
ヤスの下宿に小夏を連れてきた際のシーンだ。まずここ。

映画版
銀ちゃん俺は堕ろせって言ったんだけど聞かねえんだ
(しばらく経ってヤスと2人きりになった時)
小夏私、お腹の子と首を吊るつもりだったのよ

宝塚版
銀ちゃん俺はなんとかしてくれって言ったんだけどよ〜…(中略)こいつは田舎に帰って産むって言うんだけど、首でも吊られて化けて出られちゃ仕方ねえだろ?
(小夏から「首を吊る」意思表示はない)

宝塚版の改編は、それこそ【すみれコード】ゆえの言葉選びだったにせよ、これが「なんとかしてくれって言ったんだけどよ〜…」に変わって大きく作品の趣が転換した。
それは、映画版のタイトルが『蒲田行進曲』であるのに対し、宝塚版のタイトルは『銀ちゃんの恋』になったことにも関係してくると思っている。
銀ちゃんは一体誰に恋したのか……?

映画の方の「銀ちゃん」の読解まで始めると数億年かかってしまいそうなのでここでは宝塚版だけに論点を絞るが、私の想像だけど、宝塚版の銀ちゃんはヤスの下宿に来るまでに小夏に「堕ろせ」どころか「なんとかしてくれ」とも言ってないんじゃないかという仮説を立てた。
小夏が「4カ月だって、実家に帰って1人で産むよ」と言ったその足で、むしろ「俺がなんとかしてやるよ」なんて言ったのではないかしら、なんて。
いや、クズですよ。それでもクズなんだけど。まあ聞きなよ。

宝塚版ではいろんな改編があるけど、当然ヤスの部屋に押しかけた際の唐突な濡れ場もカットされている。当然先述の【すみれコード】の関係だろう。
それによって映画版での小夏の「銀ちゃん……」と喘ぐ声が、宝塚版では銀ちゃんが去った後小夏がぶっ倒れ、無意識に呼ぶ声のナレーションに置き換えられている。
このクズ男特有のマウント的性行為を宝塚に準じて省略しながら、ちゃんと小夏が銀ちゃんに思いを残している描写を担保していること。さらに、何もしなかったことによって銀ちゃんが“自分の好きな女を自分の好きな子分に託しに来ただけの見栄っ張りな人“になっていること。
これが映画版と宝塚版のいちばんの違いで、石田さんのギリギリで鋭敏な価値観のセンスが光るシーンである。

映画版の銀ちゃんの基本軸は【見栄と自己顕示欲】でしかないんだけど、諸々が改変されたことで宝塚版の銀ちゃんは【ただただ小夏のことが好きな人・でもスターの夢は諦めたくない人・ただただ子分であるヤスのことが好きな人】になる。
銀ちゃんは自分の周りにいてくれたみんなを愛していて、だからみんなにそばにいてほしかったんだけど、アホクズすぎて全員の人生が壊れちゃったっていう。宝塚版はそんな話に見える。
だから『蒲田行進曲』という登場する馬鹿全員への賛歌的なタイトルではなく、『銀ちゃんの恋』っていう銀ちゃんがアホでクズですいませんでしたな!と、石田さんが一緒に謝ってくれているような、そんないうタイトルに改変したのかなと味わっている。
とにかく毎分毎秒ショーストップ、宝塚ギリギリ、それどころか現代的にもギリギリの世界観を、転がり落ちるように展開する。
劇中のヤスが階段落ちで上から下まで転がるように。だが、その階段落ちで死なない“体幹“を石田さんこそ持っていると思う。彼は決して無神経ではない。

私はこの記事の前段で、『蒲田行進曲』について
「もしかしたら原作者のつかさんは、そんな『人気スター』の姿を見てきたからあれを描いたのか……?と邪推してしまいもする。」
と書いた。
もしかしたら『蒲田行進曲』は、面白おかしいありそうにもないコメディの顔をして、
つかさんが見聞きしてきた「銀幕の裏側」の“告発とパロディ“なのではないかと思ってしまうのである。――茶の間が熱狂する“スター“の皆様、あなたは確かに魅力的な人だ。だが、このくらい下衆で、こんなふうにクズで、救いようのない馬鹿だと思う。それもこれも全部見ています。
それでもあなたのことを、この芸能界を生き抜くあなたたちを讃えます――

 

 実は、石田さんの作品にも“告発とパロディ“を感じる作品がある。

それが、これまた前段で紹介した『カンパニー』だ。
製薬会社から出向してくる主人公は、阪急電鉄資本の宝塚で、鉄道会社に就職したはずなのに歌劇団のプロデューサーとして出向してくる社員を投影しているように思うし。バレエ団のスポンサーを務める製薬会社の令嬢が、「カネ・コネ」と陰口を叩かれている描写も出てくる。天才的才能を持つプリンシパルは、マイペースで頑固で、それでいて傷つけられることに慣れすぎている。
こんなシーンがあった。
バレエ公演に参加することになったアイドルグループの若手ホープ・水上那由多は、バレエ団のプリマ(主役)を務める沙良とのパ・ド・ドゥ中、彼女に怪我を負わせてしまう。
プリマの負傷に慌てふためくスタッフ・関係者たちが戦争のように往来する幕間……
那由多の所属するアイドルグループのリーダーがこう叫ぶ。

「(那由多は)トイレに閉じこもったまま出てきません!」

これもね、実は静かに批判が集まっていましたね。「トイレに閉じこもるなんてカッコ悪いことわざわざさせなくても……、いや、最悪トイレじゃなくても……」的な。実際私も初見では「トイレに立てこもったんかw那由多ww」と思ったけど。ほら、アイドルは用を足さないみたいな都市伝説、一応あるじゃないですか。
だが、2回くらい観に行った帰りの丸ノ内線内でふと気づいたのだ。
石田さんは、何かあるたびトイレで泣いているタカラジェンヌを何人も見てきたんじゃないかと……。すっかり立派になったスターから、名もないコーラスラインより後ろの一人ひとりまで。そして、演劇のことなど右も左も分からないまま、特殊な劇団の“おとめたち“を預けられる鉄道社員まで。
ああ、『カンパニー』は「蒲田行進曲」ならぬ「宝塚行進曲」なのだと思った。

やっぱり、石田作品は「オペラグラスの外」に世界がある。
上演中のその瞬間も、観劇体験に酔いしれた時間を終えた後も、オペラグラスを思わず外して全体を見渡すきっかけをくれる人。
観るたびにゾクゾクするような発見、心地よいショーストップを与えてくれる生粋のエンターテイナーだから、たとえ客席中のたった1人としても、私はスタンディングオベーションを続けたいと思うのだ。

ダーイシ、かっこいい!

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