第1回はこちら 「漫画とヘアデザイン、そのクリエイションに影響を与えたもの」
第2回はこちら 「ヘアスタイルとキャラクターの奥深い関係」
上原 僕は出身が鹿児島なんです。鹿屋というところで。
松本 鹿屋は、航空隊があったところですね。
上原 実家がたまたま美容室で、建物は3階建てだったんですけれど、家からそこの滑走路が見えるんです。いつもタッチアンドゴーをやっていて。それを僕は幼稚園のころから見ていて、小学校1〜2年生のころに先生が描いた宇宙戦艦ヤマトを見て、先生の作品にどんどんハマっていったんです。
松本 私も生まれ故郷は九州の久留米。戦後は北九州の小倉に戻りました。小倉は、あのころ、占領軍の坩堝(るつぼ)だったので、女性たちにもその時代の一番新しいファッションをしている人がいましたね。だからそういう意味でいろんなものを見ましたよね。
上原 僕は戦争を知らない世代ですけれど、先生は創作で戦争を意識することがありますか?
松本 父親が川崎航空機のテスト飛行をやっていたんですよ。陸軍航空隊のテストパイロットですね。それで第二次大戦中に南方の戦線に行って、一時行方不明でした。敗戦から1年経った夏。母の実家に身を寄せていた私たちのところに父は帰ってきました。戦争で父親をうしなった悲惨な家庭をたくさん見ていたので、父がいてくれるだけでもとても心強かったですね。生きて帰ってきてくれたことに本当に感謝しました。ただ、戦闘機のパイロットだった父は、公職追放の身だったので、自営業以外に仕事をする道がなく、一家は貧困を極めました。
上原 大変な時代だったのですね。
松本 父の腕を買ってパイロットの職を提案してくれた人も多くいたようだったのですが、父は頑として受け付けなかった。「多くの命がうしなわれたのに今さらアメリカの飛行機になんか乗れぬ」と父がつぶやくのを聞いて、私は貧乏なままでいいと自分なりに覚悟しましたね。
上原 お父さまから、信念のようなものを感じ取ったのでしょうね。
松本 意地でしょうね。父は「人は生きるために生まれるのであって、死ぬために生まれるのではない」とよく言っていましたが、これは私が作品をつくっていくときのメインテーマのひとつになっているように思います。